GoyouDa! - 冬の夜の大捕物 -

作:澄川 櫂

第2話 とっても怪しい尾行劇

「さて、次は……小澤君にやってもらおうか。小澤」
 513教室に菜穂の名を呼ぶ佐々木教授の声が響く。けれども、当の本人は夢の真っ只中。わずか十五人ほどの講義なのに大胆不敵である。
「菜穂、起きろ。当たってるぞ。菜穂」
 隣に座る圭助が気を利かして肘で小突くが、だらしなくよだれを垂らしたまま、ちっとも目覚める気配はない。
「ん? 小澤、どうした?」
 ホワイトボードを消す佐々木教授が振り向く。教壇は一段高いので、当然ながらそれらの様子はつぶさに目に入る。白髪混じりの教授はなぜかしら口元に笑みを浮かべると、教卓を離れて二人が座る席の傍らに立つのだった。
「米山君、小澤君は起きそうかい?」
「え? あ……」
 圭助はバツの悪そうな顔をすると、
「こら、菜穂。起きろって」
 今度は彼女を揺すりにかかった。これにはさすがに頭を上げ、手で顔を擦る菜穂。
「ん—……。なーに? 圭助?」
 いかにも眠そうに目を開ける。だが、真っ先に視線が合ったのは、圭助ではなく教授の方だ。
「おはよう」
「へっ? あわわっ、お、おはようございます!」
 予期せぬ顔の出現に、菜穂は思わず起立する。そんな彼女に向かい、教授はにこやかに微笑みながらマジックペンを差し出した。
「江崎さんのレポートでお疲れのところ悪いんだけど、お願いできるかな?」
「はっ、はい!」
 弾けるように教壇へ上がる菜穂。ホワイトボードを前にペンを取る。そして、そのままの姿勢で固まってしまった。
 それもそのはず。熟睡していた菜穂が講義の内容を把握しているはずもない。
「さて問題です。私は何をさせたかったのでしょう?」
 教授がわざとらしく言い、教室中に笑いが溢れた。

「もーう! なんでもっと早く起こしてくれなかったのよー」
 講義が終わり、教室に圭助と二人だけになったところで、菜穂は頬を膨らませた。恨めしそうに彼を睨む。
 だが、
「起こしたさ。もっとも、誰かさんは気付かなかったみたいだけど」
 圭助は肩をすくめただけで、さらりとそれをかわして見せた。その反応に、菜穂の頬がますます膨らむ。
 菜穂と圭助は、物心ついた頃からの幼なじみである。もっとも、途中に七年間のブランクを挟んでいた。
 二人は共に、北海道は札幌の出身である。家が隣同士だったこともあり、兄妹のように仲がよかったが、小学生最後の年に圭助一家が東京へと引っ越してしまい、以来、音信といえば年賀状くらいのもの。それも、高校受験のごたごたで途切れてしまった。
 ところが、大学へ進学してまもなく、二人は校内でばったり再会した。同じ大学に入学していただけでも驚きだが、その上さらに、同じ時間の同じ科目を選択していた。今し方受講した佐々木教授の商品学がそうだ。
 もちろん、ほかにも重複して受講している講義はある。けれども、この時間の商品学ほど受講者の少ない講義はなかった。それで出席確認の際に互いの顔を知ることができ、めでたく再会の運びとなったのである。
 全く、世の中なんてものは、広いようで意外に狭い。現在、菜穂は大学から自転車で十分ほどのところにワンルームを借りているが、圭助の一家も今は同じ千葉市内、それも大学の至近にある祖母の家に暮らしていた。
 ぷーっと膨れっ面のままの菜穂に、いつまで膨れているのやらと苦笑する圭助は、
「ま、いいや。それより菜穂、今度の水曜日、暇か?」
 不意に話をそらした。
「え? えーっと、特に用事はないけど……。どうして?」
「母ちゃんがさ、菜穂のお祝いをしようっ、て」
「あたしのお祝い?」
 小首を傾げる菜穂。
 二人の家は自転車を使えば二十分とかからぬ距離にある。それで菜穂はしばしば、圭助の家で晩御飯をご馳走になっていた。菜穂が一人暮らしをしていると知って、圭助の母が気を利かせてくれるのである。もちろん、手伝うところはちゃんと手伝っているが。
 暇か? と問われて、またご馳走になれるのかなと思った菜穂であるが、お祝いというのは解らない。

 ——来週の水曜日って、何かあったっけ……?

「何悩んでんだよ、菜穂。水曜日が何日か、よく考えてみ」
 首を傾げる姿に、圭助が呆れた声を出した。
「えーっと、今日が六日だから、水曜日は……」
 指折り数える菜穂。
「……あ」
「十二月十二日。お前の誕生日だろ?」
「あはは。そうでした」
 これにはさすがに、菜穂も笑って誤魔化すしかなかった。まさか自分の誕生日を忘れていたとは。恥ずかしさのあまり顔が火照ってくる。もっとも、熱くなるのはそのせいではなかった。

 ——あたしの誕生日、ちゃんと覚えててくれたんだ。

 菜穂が圭助と再会して八ヶ月ほどになるが、その間に改めて誕生日を教えた記憶はない。と言うことはつまり、圭助は疎遠だった間も菜穂のことを忘れずにいてくれたのだ。
「でも圭助、よく覚えてたね。もう七年も経つのに」
 ほんのり紅潮した顔で菜穂は言った。声に嬉しさが滲み出る。
 ところが、
「いや、俺は忘れてたんだけどな」
 頭を掻きながら応えた圭助の言葉に、湧き上がる感動は瞬く間に吹き飛んだ。

 ぶぅ—……。

「あっははは、ゴメンゴメン。そう怒るなって」
「ぶー」
「とりあえずその辺の話はおいといてさ、お昼を食べに行こう」
 圭助は再びむくれる菜穂のことなどまるで気にしない様子で言った。むしろ、「しょうがないなぁ」とでも言いたげである。なんとなく腹が立ってきた。
「バイトまで時間、あるんだろ?」
「もちろん、おごってくれるんだよね」
 膨れっ面を解いてすかさず言ってやる。
「……はいはい」
「へへっ、らっきぃ」
 今度こそ、菜穂は満面の笑みを浮かべた。一人暮らしの彼女にとって、たとえ一食でも食費が浮くのは大助かりである。

 大学近くのファミレスは、ランチ時間帯にしては空いていた。それでも、待ち時間ゼロで窓際の席を取れたのは幸運だろう。
 そんなことを思いながら、菜穂はストローで食後のアイスコーヒーをかき回していた。ミルクはもう十分に馴染んでいるのだが、なんとなく。
「なあ」
「ん?」
「いつ帰るんだ?」
 不意に圭助が言った。菜穂は小首を傾げると、
「大晦日の晩。三が日は向こうで過ごすつもり」
 と答える。関東で一人暮らしをする条件が、夏休みと正月には家に帰ることなので、こればかりは外せない。すると、圭助は残念そうにため息をつくのだった。
「そうだよなぁ。元旦にいるわけないよなぁ」
「……なに?」
「いやさ、こっちにいるんなら、いっしょに初詣にでも行こうと思って」
「え?」
 これにはさすがに、目を丸くする菜穂。
 圭助の方から誘ってくるとは珍しい。と言うより、初めてではないだろうか。一緒に出かけることはよくあるが、誘うのはいつも菜穂の方で、圭助はなんとなく付いてくるだけ……。
 なんだか妙に嬉しくなってきた。
「な、なんだよ」
「ふふーん、別に」
 頬杖をついてクスクス笑う。
 と、その思うところを察したのか、
「い、言っとくけどなぁ、デートとかって言うんじゃないぞ」
「んん?」
「初詣だよ、初詣。菜穂の運の強さにあやからない手はないだろ?」
 嬉々として語る圭助に、菜穂の顔がずり落ちる。
「……あっそ」
 呆れ顔で言うと、窓の外へと目をやった。確かに自分で自覚するほどの強運に恵まれた菜穂だが、何もあからさまに言わなくても、と思う。
 もっと他に言いようがあるじゃない。だいたい、あやかりたいのは単位でしょ? それは勉強しない圭助が悪いのよ。いつも寝てばっかりなんだから。
 などと、自分が講義中に寝ていたことはすっかり棚に上げて、ブツブツと口中に呟く。
 と、
「……ん?」
 同じように窓の外を眺めやる圭助が、何かに気付いて声を上げた。
「どうしたの?」
「いや、あんな感じなのかなー、と思ってさ。菜穂んちに現れたっていう男の子」
 今朝、大学に着いてすぐ、菜穂は真夜中の出来事を圭助に話していた。にわかに信じられない様子で聞いていた圭助だったが、菜穂の情景描写があまりに見事だったせいか、気に留めてはいたようだ。
「え? どこどこ?」
「ほら、あの電柱の陰にいる、マリーンズの帽子を被った」
 圭助が指したのは、ハーフパンツに白パーカー、その上に青いダウンベストという、小学二年生ぐらいの男の子である。ありふれた格好と言えばそうだが、マリーンズの帽子というのは、地元千葉でもあまり見かけない。
 後ろで縛った茶色い髪も、二人の気を引くには充分だった。そして、電柱の陰からこそこそと様子を窺う、挙動不審な様子も。
「そうそう、あんな感じの……」
 菜穂が言いかけたとき、男の子がチラッとこっちを向いた。目深に帽子を被っているので、目元はよく判らない。けれども、この時はそれが幸いした。
「ああーっ!?」
 菜穂には一目で、少年が夜中の彼と同一人物だと判った。周囲を憚ることなく、大声を上げて立ち上がる。もちろん、店内の視線が菜穂に集まったのは言うまでもない。
「な、菜穂……」
「間違いない! あの子よ!」
 諫めようとする圭助の言葉も聞かず、菜穂は店の外へと飛び出していた。

「なにしてるんだろ……?」
 眼鏡をかけたスーツ姿の男を、電柱の陰から陰へと隠れながら追いかける少年の姿に、菜穂は訝しげに首を傾げた。怪しい。絶対怪しい!
 それを電話ボックスの脇から観察している菜穂も充分怪しいのだが、例によってそのことはすっかり棚に上げている。往来の人間が怪訝そうに振り向くが、それを気にする様子は微塵もない。
 と、そんな彼女の頭の上に、なにやら重たいものが載せられた。慌てて手をやると、それは他ならぬ菜穂のナップザックだった。振り仰いだ視線の先に、圭助が呆れ顔で立っている。
「忘れもんだぞ、菜穂」
「あはは、ありがと」
 菜穂は照れ笑いを浮かべた。ファミレスに置いてきたことをすっかり忘れていた。圭助に礼を言いながら、いそいそとナップザックを背負い込む。そうして再び、少年の方を向いた。
「あからさまに怪しいよね」
 後ろの圭助に言うが、もちろん、彼は菜穂も充分怪しいと思っている。それでも、
「あのおっさんに何かあるのかな?」
「ただのサラリーマンにしか見えないけど……」
「でも、一人で遊んでるようには見えないよなぁ」
 話を合わせるところを見ると、やっぱり気にはなっているようだ。
 紺の背広の男は車道を渡って脇道へ折れた。電柱の陰から様子を窺っていた少年が、縛った髪を尻尾みたいに揺らして後に続く。
 菜穂もまた車道へと飛び出した。右も左も確認せずに。片側が二車線の幹線道路だ。いつ車が来ないかと冷や冷やしながら、圭助も駆け足で追いかける。
 脇道に入りかけたところで、慌てて菜穂は退いた。少年がすぐそこの電柱の手前にいたのだ。塀越しにそっと中を覗き込む。どうやら気付かれてはいないらしい。
 ふーっと息を吐いて、菜穂は圭助を見た。
「ねえ、何だと思う?」
「さあ。直接訊いてみればいいだろ」
「……そうだよね」
 やっぱり? という感じで頷くと、菜穂は大きく息を吸い込んだ。
「こらっ! なにしてるの!」
 不意に背後から声をかけられて、少年はたまらず飛び上がった。弾かれたように電柱を離れ、あんぐりと口を開いて振り向く。だが、その後の展開は、菜穂の想像を遙かに超えていた。
 菜穂の声に足を止めた背広の男が、少年の姿を認めてぎょっとした表情を見せる。
「なっ!? 貴様はっ!」
 目に見えて狼狽する男は、なんと懐から拳銃を取り出し、こちらに向けて構えるではないか。
「えっ?」
「しまった!」
 少年が慌てて腕を交差するのと、男が引き金を引くのは同時だった。ポウッ、という耳慣れぬ音と共に、青い光が視界一面に広がる。
「きゃあっ!」
「な、なんだ!?」
 それはほんの一瞬の出来事だ。叫んだ二人が目を開けた時には、光は既に晴れている。だがそこに、紺スーツに丸眼鏡の男の姿はなかった。狭い路地を隔てる塀の列が続くばかり。
「き、消えちゃった……?」
「お姉ちゃんたち」
 呆然と立ち尽くす菜穂と圭助を、茶髪の少年が振り仰いだ。マリナーズの帽子の陰から、心底恨めしげな視線を送る。
「仕事、増やさないでよね」
 口を尖らせて言うと、二人の脇を抜け、元来た道を戻っていく。一呼吸あってから、慌てて後を追って路地を出る二人だったが、
「えっ……?」
「嘘だろ」
 その少年の姿も、まるで煙のように消えていた。